元寇1st

突然ですが元寇です

当ブログの記念すべき初記事は、元寇です。
理由は特にありません。
いや、全く理由が無いわけではありません。
最近になってあらためて元寇を調べてみると、子供の頃に教わった定説が影も形もないので、驚きました。
そこで、自分なりの所感をまとめてみようと思った次第です。

元寇今昔

私が子供の頃は元寇というと、伝統的な戦い方をする日本の武士団は元軍の集団戦法や火薬兵器『てつはう』に歯が立たず、台風のお陰でなんとか勝てた、等と教えられました。
ところが最近の研究では、武士団は一方的に負けた訳ではなく、その奮戦ぶりに元軍側も結構ビビっていたようです。

まあ、よくよく考えてみれば、せっかく確保した橋頭堡を捨てて、船に引き上げた所を台風に襲われ全滅なんて間抜けな失敗を二度も繰り返すとか、もはやコントですよね。

文永の役

子供の頃に読んだ本では、1日で終わったかのように書かれていましたが、どうも実際には2週間ほど各地で戦いが続いたようです。

文永11(1274)年10月3日に朝鮮半島を出港した元・高麗軍は10月5日、対馬を攻撃します。
約1000人が上陸し、守護代・宗 助国率いる約80人と交戦、撃破したのち佐須浦を焼き払います。
同様に10月14日には壱岐を攻撃します。
そして10月16~17日にかけて肥前沿岸を攻撃。
これらの地域では多くの住民が虐殺され、あるいは捕虜として連行されます。

10月20日博多湾に上陸した元・高麗軍は損害を受けつつも、じりじりと内陸部へ侵攻。
日本軍は九州各地から駆けつける戦力をまとめつつ、遅滞戦闘を行いながら水城を目指して後退していきました。
その最中に発生した百道原・姪浜の戦いで日本側総大将・少弐 景資本人か、その郎党が元軍の副将・劉復亨を射倒し、重傷を負わせます。
この出来事は、後に元・高麗軍撤退の判断に影響を与えたとも言われています。
明くる10月21日未明には元・高麗軍は撤退しています。

昔は戦闘終了後、船に引き上げた所を台風に襲われて大きな被害を出し撤退したといわれていましたが、現在では台風ではなくただの悪天候で、遭遇したのも撤退の途上といわれています。
日本側は約150隻が周辺の島々に座礁しているのを確認、多数の捕虜を得てその多くを処刑しました。

文永の役所感

文永の役は元・高麗軍があっさり退いたことから最近では、単なる威力偵察で本格侵攻ではなかった、という説があるのですが、私は文永の役はやはり本格侵攻だったという説を支持します。
というのも、元軍がこの戦いで動員した戦力は高麗軍を含めて、最大で約4万人、船は戦闘艦、上陸船、補給船を合わせて900隻にもなります。
南宋と断続的に戦争を続けていた元にとって、東方に動員できる全力と思われます。
この時期、元・高麗が東方で動員した兵力は
三別抄の反乱を鎮圧した際が1万2000人ほどですから、その動員規模は段違いです。

高麗側の記録(『高麗史』)では未帰還者1万3500余とあり、また撤退時の悪天候により150隻の船が座礁、難破したのを日本側が確認しています。
この損害とその補填で高麗は国力きく疲弊させ、二度目の遠征に反対したほどですから、文永の役は国運を賭した大遠征だったようです。
威力偵察でこれだけの事をするとは思えません。

もちろん当時の高麗は元の属国ですから、嫌でも軍や物資を出さざるを得なかった、元は日本の実力を知るために属国をぶつけてみた、という解釈も可能です。

しかし元側でも戦闘中に負傷した元軍の副将・劉復亨は帰還後、敗戦の責任を負って降任処分を受けています。
最初から撤退が前提の威力偵察なら、そのような処分を行うのは不合理に感じます。
また、元軍は帰還後、敵10万を討ち取ったと報告しています。
これは明らかに誇大報告なのですが、見方を変えればそれだけの大軍が敵だった、撤退までに十分な戦果を挙げたという、言い訳とも見てとれます。

まとめ

・久々に元寇を調べたら昔教わった話と全く違って驚いた。
文永の役では神風は吹かず、武士が結構ガチで戦っていた。
文永の役はやっぱり1回目の本格侵攻だったと思う。

と言った所でしょうか?
とりあえず今回はここまで。

あと一応予告。
次回は日本と元・高麗の決戦、弘安の役を取り上げたいと思います。